労働環境の改善

蔦のからまる倉敷アイビースクエア
蔦のからまる倉敷アイビースクエア

1888 年(明治21年)

クラボウ創業時の工場
自然の力を使い工場内の環境を改善

労働環境の改善

製氷機で工場の温度を下げよう。

「大型製氷機で工場の温度・湿度を調整しよう」「ヨーロッパへ行って調査せよ」第2代社長大原孫三郎の奇想天外なアイデアは、折からの不況と技術的な問題で実現しなかった。しかし、従業員の働く環境を自然と調和しながら人間的、健康的にしたい、という彼の信念は、井戸水を循環させる冷房となり、換気を良くするための換気塔となり、また赤レンガの外壁をおおう「蔦(つた)」となる。

クラボウ創業時の工場全景
クラボウ創業時の工場全景

蔦は、西日を防ぎ、夏は茂り、冬は落葉して、自然に内部の温度調節を果たした。昭和48年、クラボウ発祥の旧倉敷本社工場がホテル・文化施設として生まれ変わった時、その蔦が「倉敷アイビースクエア」の由来ともなった。赤レンガと蔦の回廊をめぐらせた広場を囲むのは、ホテル、レストラン、多目的ホール、ブライダルチャペル。さらに、手づくり工房、倉紡記念館など、古いものと新しいものが、古いものと新しいものが渾然と調和する。孫三郎が心血を注いだ日本の理想的な紡績工場は、いま彼の経営指針のひとつである文化性を体現する場であるとともに、人々をやさしく包み込む場ともなっている。

赤れんがと蔦の複合文化施設 倉敷アイビースクエア
赤れんがと蔦の複合文化施設 倉敷アイビースクエア

倉敷市の美観地区にあり、重要伝統的建造物群保存地区にある複合文化施設。赤れんがと蔦のレトロな雰囲気が印象的なホテルの他に、クラボウの歴史的資料を展示した「倉紡記念館」や体験施設なども点在。人気の観光スポットにもなっている。

公式サイトへ

昔の労働科学研究所図書館
昔の労働科学研究所図書館

1921 年(大正10年)

倉敷労働科学研究所 設立
工場内の職場環境を科学的に分析し改善

労働環境の改善

さあ。工場に行きましょう。

「さあ、工場に行きましょう」第2代社長大原孫三郎が、暉峻義等(てるおかぎとう)に倉敷工場を見せたのは、大正9年の真冬の深夜だった。当時の紡績工場で働く女性従業員は、深夜労働や過酷な作業環境で、心身を消耗し、結核などにかかることもあり、孫三郎はそれを科学的に改善しようとした。暉峻と医学者、心理学者の3人は、翌年夏の5週間、工場の一角に泊まり込む。それは昼夜二交替作業の心身への影響の実験・調査という画期的なものだった。

設立当時の研究風景
設立当時の研究風景

これを機に「倉敷労働科学研究所」が生まれ、労働に関わるすべての科学分野がここに結集された。「労働と音楽」もいち早く研究され、労働者の所要カロリー研究では学童給食にもデータを提供し、饅頭までが開発された。現在で公益財団法人「大原記念労働科学研究所」として産業界、官公庁、労働組合などに時代の先端を担う調査研究で貢献。海外との研究者交流や共同研究にも積極的に取り組んでいる。その目標は「労働をより人間的に」。資本も経済も産業も技術も、すべて人間のため、という孫三郎の労働理想主義は、今日も変わることがない。

公益財団法人 大原記念労働科学研究所
公益財団法人 大原記念労働科学研究所

工場やオフィスなど産業現場の労働について実証的な調査研究を行い、作業方法、職場環境や労働生活の改善に役立てることを目的に活動。「労働をより人間的に」を目標に掲げ、医学・心理学・工学・社会科学などを学際的にアプローチし、現場の問題解決に有効な科学的で現実的な対策を打ちだしている内閣府所管の公益財団法人。

公式サイトへ

倉敷中央病院のシンボル「温室と噴水」
倉敷中央病院のシンボル「温室と噴水」

1923 年(大正12年)

倉紡中央病院 設立
高度先進医療を行う総合病院を開院

労働環境の改善

東洋一の病院を作ろう。

第2代社長大原孫三郎が病院建設を決心したのは、一万人近くなった従業員に十分な健康管理・診療を行いたいとの思いと、当時西日本一帯に流行したスペイン風邪に対する、地域住民ヘの医療の不備を見かねてのことだった。 大正12年開院した「倉紡中央病院」は、優秀な人材と最先端の施設・設備を整えた総合病院。 クラボウの従業員のためだけでなく、その後、一般にも開放された。

設立当時の病院外観
設立当時の病院外観

孫三郎の創意によって、四季を通じて花が楽しめる温室、患者を歩かせてはならないとエレベーターも設けられた。もっとも注目すべきは、平等の精神と患者の治療を最優先する医療。 昭和2年に「倉敷中央病院」と改名、平成25年に公益財団法人に移行し、一層の社会貢献を目指している。現在、1,166床を有する先進的な医療を行う急性期基幹病院として、地域から厚い信頼を集めている。「患者さんの権利」掲げ、患者さんと共に医療を行うという姿勢に、「最高の医術と家庭の温もり」いう創立の精神が90年超えた今日まで守り続けられているのを知ることができる。

公益財団法人 大原記念倉敷中央医療機構 倉敷中央病院
公益財団法人 大原記念倉敷中央医療機構 倉敷中央病院

創立者の理想とした患者本位を基盤に、世界水準の高度先進医療を行うため、地域医療連携に努めると同時に、説明ある医療による患者さま参画の医療を目指している。創立当初からアメニティにも十分配慮し、温室・ギャラリー等の癒しの空間を持ち、緑と光のあふれる病院らしくない明るい病院。ベッド数1,166床、職員数 約3,200人、1日平均外来患者数 約2,600人。

公式サイトへ

社会福祉・地域振興

大麦・野生植物資源研究センター
大麦・野生植物資源研究センター

1914 年(大正3年)

大原奨農会農業研究所 設立
農業従事者の福祉向上のための農事改良

社会福祉・地域振興

農業問題に貢献できれば幸せ。

「ドイツへ留学させた近藤萬太郎の進言で、大正3年財団法人大原奨農会農業研究所(大原農研)がクラボウ第2代社長大原孫三郎によって設立された。「来るべき農業問題に貢献できれば非常に幸せ」、これが孫三郎の描いた期待だった。農業の科学的研究と農民の福祉向上のための農事改良を目指し、新進の研究員たちが集められた。所内や開墾した山に果樹園がつくられ、桃、梨、ブドウなどの品種改良、温室ブドウの栽培研究を行い、果物王国・岡山県の果物の新品種、栽培法を生み出す基礎を築いた。昭和28年には岡山大学附置研究所となり、昭和63年には新しい学術上の進展と社会的要請に応えるために「資源生物科学研究所」として再スタート。

設立当時の大原奨農会 農業研究所全景
設立当時の大原奨農会 農業研究所全景

資源植物をバイオサイエンスの視点で総合的に研究している。平成9年、第二次世界大戦以前から保存する大麦や野生植物の種子のコレクションを引き継ぎ大麦・野生植物資源研究センターを設置。平成22年度からは、文部科学省の「植物遺伝資源・ストレス科学研究拠点」として認定され、「資源植物科学研究所」に改組した。現在は国内外の研究者と連携しながら、劣悪環境でも生育可能な作物の創出に向けた基礎研究を推進している。

岡山大学 資源植物科学研究所
岡山大学 資源植物科学研究所

13の研究グループが、微生物からモデル植物や作物に至る資源生物を対象とした遺伝および機能、特に各種ストレス環境に対する反応性の解析に関して様々な角度から取り組み数多くの成果を発表。生物生産の持続的発展と地球環境の保護・保全を目指して研究を展開中。

公式サイトへ

新生児集中治療室(NICU)
新生児集中治療室(NICU)

1917 年(大正6年)

石井記念愛染園 設立
診療、困窮者の保護など近代的隣保事業の先駆け

社会福祉・地域振興

孤児のために逝った石井に倣え。

「孤児のため命を捨てて働かん永久の眠りの床につくまで」と誓った石井十次は、明治20年岡山に孤児院を設立した。熱心なキリスト教徒の彼は、神の命として、明治39年の東北地方凶作には1,200名もの孤児を収容。石井を心の師と仰ぎ、常識破りな活動にも私財での支援を惜しまなかったのが、第2代社長大原孫三郎だった。石井は明治42年に貧困家庭が多かった大阪に進出し、貧困層救済に着手したが、志半ばで世を去った。

当時の岡山孤児院(大阪事務所)
当時の岡山孤児院(大阪事務所)

孫三郎は、その精神と事業を継承して、没後3年の大正6年に石井記念愛染園を創立。働く母のため乳児の託児所、幼稚園、学校、また保母養成所、救済事業研究室などで貧しい人々を教育・救護する隣保事業を展開。さらに、貧困の原因の多くが病気であるため、昭和12年には附属愛染橋病院を開院。無料・低額・完全看護で住民本位の「母と子の病院」を目指し、戦中、戦後を通じて新生児医療にも貢献。現在は隣保事業、介護事業を加えて、地域の医療福祉センターとしての役割を担う。石井十次の「隣人愛」の精神は、石井記念愛染園の基本理念として、今日も実践されている。

社会福祉法人 石井記念愛染園
社会福祉法人 石井記念愛染園

大阪市にある愛染橋病院を核に、4つの保育園運営を中心とした隣保事業、特別養護老人ホーム運営を柱とした介護事業を展開する社会福祉法人。愛染橋病院は開設当時から地域医療・母子医療に力を入れ、現在では新生児集中治療室18床、母体胎児集中治療室9床を備えるなどし周産期医療の中核病院の一つとして活動中。

公式サイトへ

エル・グレコ「受胎告知」
エル・グレコ「受胎告知」

1930 年(昭和5年)

大原美術館 設立
日本最初の西洋美術館

社会福祉・地域振興

小生は、画のことは素人。

「小生は画の事は素人」と第2代社長大原孫三郎は、児島虎次郎への手紙に書きながら、その求めに応じてパリへ絵画購入の資金を送り続けた。孫三郎は、児島が若く無名な頃からその人物と画才を愛し、3度の渡欧を全面的に支援し、終生の友人ともなった。児島は、自らの研究と日本で洋画を見る機会のない学徒のため西洋絵画の購入を申し出、承諾された。クロード・モネの「睡蓮」、エル・グレコの「受胎告知」など、膨大で精妙な蒐集は日本に大きなインパクトと勇気を与えた。

設立当初の大原美術館
設立当初の大原美術館

画家としても児島は、フランスのサロン・ナショナルの正会員、また帝展審査員として活躍したが、昭和4年に47歳の若さで病没する。翌昭和5年、孫三郎は彼を記念して「大原美術館」を設立。日本最初の西洋美術館であった。大原美術館は、孫三郎の子・総一郎がその志を継ぎ、日本と西洋の近代から現代の美術、また民芸運動に関わった作家たちの工芸作品にもコレクションを広げ、ユニークな総合美術館として世界にも知られている。現在は、21世紀にも躍動する美術館として多彩な活動を続けている。

公益財団法人 大原美術館
公益財団法人 大原美術館

西洋はもとより、古代の中国とエジプト、そして日本に至る広範な分野からのコレクションで世界的に有名。また、美術講座や世界を代表する音楽家を迎えてのギャラリーコンサート等を通じ、諸芸術のフロンティアと広く関わりながら、21世紀に生きて躍動する美術館として、多彩な活動を展開中。

公式サイトへ

大原孫三郎人物伝